はじめまして。ミイコと申します。
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派遣社員歴20年、特にExcelを武器として10社以上の企業さまのサポートをしてきました。現在は、企業さまの広報担当や、開業のサポートを行っています。
専門知識はひとつもない派遣社員がマーケティングの知識ゼロから必要とされるマーケターに絶賛成長中です。今の毎日を充実させたい、将来の生活を楽しく笑って過ごしたい!
自分のペースを作りたいと思っている方の背中を押せたらいいなと思います。
物静かな超控えめな幼少期
夫婦喧嘩の派手さは近所でも有名な家庭でした。声の大きな父、それに臆せず反論する母。
お皿が割れる、物が壊れるは日常茶飯事でした。
そんな家族の娘は真逆のおとなしい、むしろ、自分の意見を言えない性格でした。
小学生の頃はよく、授業中の発表の際の声が小さいですと言われていました。
いじわるな男子が筆箱をいたずらしても何も言えないで壊されたりしたこともありました。
靴を片方だけ隠されるといった地味ないじめもされました。
視力が弱かったため、メガネ女子だったことも内気な性格に拍車をかけていました。その頃はメガネをかけている小学生は珍しかったのです。
自由を求めた高校生
勢いのある両親から厳しく育てられていました。物静かな小学生は徐々に明るい、誰とでも気軽に話す正確に変わっていきました。
部活やアルバイトをするようになり、活動の幅が広がったからなのではないかと分析しています。社会と関わる、大人たちと関わることで、世界が広がっていったように思います。
それでもまだ高校生時代は、早い門限のために遊びに行ってもすぐ帰る、アルバイトへ行っても迎えに来ることもよくありました。高校生になっても反抗しようものなら、締め出しされるなどもずっと続いていました。両親の勢いは変わらず続いていました。
どうしてウチはこんなに窮屈に感じるのだろう・・・。
制限のある生活に疑問と不満は増えるばかりだが、どうにかしたいと思っていました。
制限のある中で育った私は、自分の将来を考えることが出来ずにいました。
特に将来なりたい職業もなかった私は、大学生になったらもっと遊べるだろうと思っていました。家にいる時間をなくしたかっただけでした。大学生のイメージが「遊べる」「楽しい」と華やかにみえていました。
ただ自由になりたい。
進路を決めるころ、バブルがはじける1年前でした。父は不動産業を個人で経営していました。世の中はバブル絶頂期と言われていた時代です。
嘘かホントか父が言っていた未来予想。
バブルがはじけたら不動産業もやっていけない、ましてやこれから仕事がなくなる。
就職先もなくなる…。大学行って4年後に就職は出来ない。
そんなはずはないだろう、だってニュースにもなってないし。
ネットがない時代、情報収集はテレビか周り人からだけでした。疑った私は、社会科の先生に質問をしてみました。
・不動産業界の景気が悪くなると、社会全体も不景気になるのか
・今まで生きてきた中で不自由を感じたことがない
先生の答えは父の言葉を後押しするものでした。
不動産業界の動きと経済の関係性や、日本、世界の経済は深く繋がりがあり、
これから変革があるだろうと、授業より濃いお話しを聞くことができました。
廊下での立ち話でしたが(笑)
当時は全く気付かなかったのですが、既に父は今まで営んできた事業が続かない、
この先どうしようかと悩んでいたのだと、後に知りました。
父の話を社会科の先生から具体的に聞いたことで、自分が自由になるにはどう進もうかを
考え直すきっかけができました。そして、進学せず、就職という選択をすることにしたのです。
パソコンを習得したきっかけ
父からの話しを受け止めてよかったことがもう一つあります。
パソコンを習得すること
仕事がなくなるこの先は、手に職、専門知識があれば生きていけると言っていました。
本人も学歴は低く、性格上、企業の中の一員として働くことが不向きなタイプであったために、資格をいくつか取得してきていました。宅建もそのひとつでした。パソコンはまだ使える人が少ない、これから需要が広がると、私に勧めました。
個人事業ということから、自宅にパソコンがありました。当時はモニターが小さくても幅も奥行きもある、重たい大きなモニターとハードディスクでした。父は自宅で経理を行ったりしてたため身近にパソコンがありました。空き時間に私はキーボードを打つ練習からはじめたのです。
はじめはただ、勉強として触り始めたのですが、キーボードを打つスピードをアップしたい!とタイムアタックにチャレンジすることがゲーム感覚で楽しくなっていきました。
そんな折、近くにパソコンスクールがあると知り、入力だけでなく、もっと実際に使う場面を想定して通ってみることにしました。キーボードの指の位置(ホームポジション)からはじまり、肘の角度、椅子の高さなど、基礎中の基礎からの習得。目指すはブラインドタッチ。パソコン操作は、1時間行ったら10分休むと効率が良いなど、豆知識までスクールで習得しました。
長い派遣社員時代のはじまり
就職氷河期前に、安定した企業へ入ろう!自由になり、自立をしよう!という思いから入社したのは金融機関でした。15時でシャッターが降りる直前からが1秒たりとも無駄に出来ない時間との闘いの時間。しかもいわゆる五十日(ごとうび)は業務の集中日。ともあり、殺気立っていました。
私は電子送金の担当。相手先の情報、金額の入力などを行います。(今はシステム化しているのでそんな担当はないのかもしれませんが。)
集中日には、パソコン3台を乗っ取り、フル稼働させていました。決まった時間をどう使うかを考えることをしていたと、今となってはよい経験をしました。
しかし、入社2年目を迎える頃、違うステージに立ってみたいと思うようになりました。
社会人になってたった2年弱にも関わらず、もっと大きな企業で仕事をしてみたい、自慢ができる仕事をしたいと思い、就職氷河期が続いている中でしたが、退職することにしました。
その後もちろん、正社員で再び働くことが出来ずにいました。履歴書を作成するも、学歴も資格もない、田舎の金融機関で働いた職歴だけの人材を大企業が採用するはずもなく、自由を求めていた生活が遠のきました。
そんな中、まだ認知度が低い”派遣社員”という働き方を見つけました。
ところが、登録基準は
正社員歴2年以上、短大、もしくは大学卒業
当時の派遣社員の登録基準は今に比べると高い壁でした。前職は1年10ヶ月で退職、学歴の低さなかなか登録も出来ずにいました。登録時にはレベルチェックという名のテストがあります。複数の派遣会社へ出向き、そのテストを受け、面接も何度も行いました。とにかく大企業の一員になってみたいという思い一心でした。
唯一の自信はタイピングの速さ。
今は、スピードは落ちてます(笑)ショートカットやツールを使うからでしょうか。
何度テストと面談を繰り返しても撃沈が続きました。何度も面談を繰り返すうちに、自己アピールは実績が必要と気付きました。やっとのことで派遣社員として、夢だった大企業への就業ができるようにもなりました。
東京のオフィス街でランチを食べたり、帰りに寄り道したりする日々を送っていました。立場は違えど、オフィスワーカーとしての生活を楽しむことが出来るまでになりました。
しかし、派遣社員としては年齢が低いからなのか、立場が弱いからなのか、事件もありました。ひたすらシュレッダーをかける仕事だったり、社員のミスを擦り付けられる、挙句には書類を紛失されるなどの事件に巻き込まれることも多々ありました。
自分から入った派遣業界の実情を知り、またしてもこのままでよいのか悩むようになりました。そんなこともあり、どうせなら、いろいろな業界を体験してみよう!と
朝6時からファストフード
9時から事務職
週末は単発の派遣で立ち仕事。
平均睡眠は2時間でしたが、自分に合う仕事探しへの挑戦をしてみることにしました。
今となっては絶対に不可能な生活。しかも、“複業”をしている人は珍しい時代で、周りからは、なぜそんなに働くのか不思議がられていました。
活動量が増えたのでもちろん、収入も増えました。
得たスキルは”立ったまま寝る”こと。睡眠時間2時間の日々を過ごしていました。
それでも、友人と食事へ行ったり、年1回は海外旅行へ行けるほどになりました。
貯金はしなかったことは今でも公開していますが…。
派遣社員からの正社員はたった1年
派遣社員の任期は最長3年です。3年後は同じ会社では就業が出来ないといった派遣法があります。2018年に派遣法が改正され、その年の9月末には専門26業務といわれる主要業務で派遣社員として働いていた人がその職場を一斉に辞めることになり、2018年問題と言われていました。
当時私も3年満期を迎え、企業との契約は終了を迎えることになりました。就業先の上長からの勧めで、委託先のベンチャー企業に社員として入社し、派遣社員時に担当していた業務を持って従事しました。業務は変わらず順調でした。むしろ、仕事内容が変わらないが、社員となり、取引先は大企業。このまま安定した日々が続くであろと安心していました。
しかし、安定はたった1年で終わりました。
入社したベンチャー企業が破産申告することに。他業態への投資を過剰にしたことからの廃業だとすぐにわかりました。それは、いつからか督促の電話ばかりがかかってくるようになりました。社長は常に不在。そして最後は給与が未払いとなりました。そうなると、社内の空気も悪く、お互いに罵り合うような関係に変わっていったのも覚えています。最終的には会社に頼れないと痛感した出来事でした。
再び派遣社員と戻ろう、社員でなくても、安定した仕事に就けるのであれば雇用形態にこだわらずに、必要とされる場所で働きたいと思うようになっていくのでした。その頃はまだ、起業しようとは1ミリたりとも思っていませんでした。
就業した企業が倒産、父親も仕事が倒産などを目の当たりにして絶対に起業はしたくないと思っていました。
在宅ワークしてみたら快適だった
コロナ過になり、派遣社員も在宅ワークをするようになりました。出勤して仕事をするのが当たり前だった、普通のことだった生活から一転し、一日中家にいることに不安はありました。
・仕事に集中できるのか
・サボっているのではないかと思われるのではないか
・コミュニケーションができない
・困ったときに相談できない
この時に使うようになったツールがzoomやチャットでした。画面越しではあるものの、複数人と会話もできるし、オンタイムでのコミュニケーションも問題なくでき、ニューノーマルな生活をしてみたら、在宅ワークが快適なことを知りました。
タスク管理、時間管理は自分で決めることが何よりも快適で、ストレスがなくなりました。
今までは往復2時間超えの通勤時間でした。朝のドタバタが在宅ワークになることで、2時間の余裕ができ、朝食もしっかり摂れるように変わりました。慣れてくると時間を持て余すようになり、それなら自分の時間を有意義に使おうと新たな学びを考えるようになりました。
この頃、instagramでの発信を趣味の延長で行っていました。
息子のダンススクールのアカウントです。今でも行っています。
発信しはじめてみたものの、フォロワーが増えない、ネタの作成に苦戦し、手間と時間がかかるなど時間があるとはいえ、手ごたえのないものでした。デザインも基本すらしならい状態どころか、センスもなく苦手なために案でさえ浮かばずのアカウント運用でした。
SNSをもっと効率よく、効果が出るようにしたい!
SNSから認知や集客ができている人たちのノウハウを知りたい!
私がSNSマーケティングを学ぶきっかけでした。
動画編集を学び、さらにマーケティングを学ぶ
ダンススクールの広報をボランティアで活動していることから、動画が作れるようになること、そしてSNSにアップして、スクールを盛り上げようとまずは動画スクールへ入会しました。それまでは編集アプリで動画を作り、アップしていたのですが、動画のプロが使っている”PremierePro”を学びました。編集の基本は習得したものの、その先の発信はどうする?
内容はどうやって考える?
編集ができるだけではチカラ不足なことに気づいたのです。
投稿をみてもらえても、いいねしてもらっても、実際のお問合わせは1%以下
フォロワーも増えてはいきませんでした。何をしたらいいのか?
毎日投稿していても何も変化がない…。
そこで知ったのが、マーケティング。
撮影・編集ができても、それを必要な人に届ける手段を知らなければ意味がない!!
届けたい人へ向けた情報を確実に届けることを目的とした手法を知ることが必要ということに気づいたのです!
Instagramで集客できる手法に注目!
今私が注目している集客は”Instagram”
日々学び続けています。最新の情報が必要なのです。時代の変化についていかないと
全く意味のない行動になってしまいます。古い情報は必要ありません。
既に自分の学習にかける出費は膨大になっていました。それでもマーケティングの知識は今付ければ悩みが解決できる、世の中の事業に悩んでいる人のための活動ができると思い、今に至ります。
自身のInstagramでもマーケティングの発信をはじめたところ、以前お仕事をさせて頂いた知り合いから広報関連を手伝って欲しいとお声がけいただきました。日々勉強しながら、ヒアリングをしながら3社のPRや情報発信について幅広く携わらさせていただいてます。
まだまだ進化の途中です。崖っぷちからの脱却はまだはじまったばかり。
何もせずに後悔するなら、やってみて後悔することで新しい道が開くと信じています。
今後も一歩ずつ進化していくつもりです。時にはブログを覗いて成長をみてください。
最後までお読みいただき ありがとうございます。